let the good times roll
HOME NEXT

              はじめに

 僕の唯一の趣味はモータースポーツです。このエコロジーな時代になんて反社会的な、と思う方もいるでしょうが、これは理屈では説明出来ないなにかだとおもいます。TVでみるF1マシンのエンジンの悲鳴にも似た高周波系のエキゾーストノート、AMAスーパーバイクの野獣の咆吼にも似た16ビートのサウンド、これを聞くとその秘めたるパワーに感動し鳥肌がたちます。

 現在、僕の愛車はGPZ900Rです。数年前からKAWASAKIのバイク以外は、興味がなくなりました。  このコラムでは僕のKAWASAKI車にたいする思いと、日常の出来事を発信していきたいと思ってます。

gpz GPZ900R...
オランダ仕様フルパワー
1.バイク
2.後輩
3.学生時代
4.DUCATI
5.国産バイク
6.車歴
7.4気筒マルチ
8.リッターバイク
9.900R購入への道

10.ドライビングシュミレーターで見た、アブネー奴!

11.バイクアニメ
12.人の死
13.鈴鹿8耐
14.DARKANGEL


1. バイク

僕がオートバイというものに興味を持ったのは高校1年の夏休みに実家に帰省してるときに姉の運転する車に乗っているときに目の前を走っている(年代的に恐らく当時発売されたばかりの)、Z2をみた時に、「あのオートバイに乗ってみたい」と思ったことから始まっている。その頃世の中は暴走族全盛期で、大体僕が覚えて居る限りでは、ちょっとおおきな集会では100台位集まる集会はざらにある、そんな時代だった。これに頭を抱えた警察が考えたのが大型自動2輪は飛び込みの検定のみで行うという信じられないものだった。そして学校では俗にいう「3ない運動」が盛り上がり、バイクイコール不良への第一歩という考えが世の大人達の常識になった。

 こんな時代だから当然ウチも、バイクの免許なんか取らせてくれるわけはなく、「もうちょっと我慢して車の免許取れよ」というのが、おきまりの返事だった。それから高校を卒業し浪人生活をする事になった僕は、よしとりあえず原付に乗ろうと思い、RD50というヤマハのオンロードスポーツを買い、当時一緒に浪人していた同級生H(彼はホンダのMB50)と夜な夜な都内を走り回っては、朝方帰宅して昼間は爆睡するという生活をしていた。そうこうするうちに同じ予備校に通う多浪している先輩達で、バイクの好きな人達と走るようになっていった。そのなかの一人で飯田さんという、スズキのGT750という750の2ストに乗っているひとは根っからのバイク好きで、僕のRDが不調だった時に夜通し修理につきあってくれた。原因はジェットの番号がノーマルと違うものがついていたためエンジンがカブッテしまい走らなくなるという単純なものだった。あとから聞いた話では飯田さんはその年も受験に失敗し、城西モータースに就職したらしい。

 一緒に原付で走っていたHはその後すぐに教習所通いを始め、バイクもHAWK2に変わっていた。内心羨ましかったが車の免許を持っていなかった僕は、中免をとるためには学科も必須となるため、結構時間も費用もかかってしまうということから車の免許をとるまで我慢しようということになった。そしてその翌年もめでたく?浪人が決定した僕とHは高校時代の後輩Mと期せずして再会することになる。

 

2.後輩

 お互いに浪人が決定した僕とHは、別々の予備校に通っていた。
 僕が入った予備校の寮の部屋に荷物を運んでいる時に真ん前の部屋のドアが空いていて、何気なく部屋の中を見ると学年で2級下の後輩Mが座っていて、ぼーっと外をみていた。
 その顔に見覚えがあった僕は
「おう、なんだお前もここにしたの?」
と声をかけた。すると怪訝そうな顔で
「あ、はあ…」
と生返事。あとから聞いた話ではMは僕のことを覚えていなかったらしい。この後輩もバイク好きの資質を持っていた。
 しばらくして僕とHがバイクで遊んでいると、
「僕も原付免許取ったんすよ」
とMが一緒に夜中のツーリング(?)に参加するようになった。
 YAMAHAのChappyという、いまでいうスクーターのような中古バイクに乗ってついてくるようになった。
 このChappyは僕とM、そして九州の大病院の息子Aの3人のモノだった。Aは他に、当時200万以上はしたと思われる最初にして最後のHONDA空冷6気筒の1000ccCBXに乗っていた。
 大型免許の新法が施行されてから、国内のバイクメーカーは国内販売においては排気量750ccまでの販売という自粛をしていた時代にまさに、雲の上の存在だったCBXを、浪人生が乗り回していたのである。
 コイツが「3人で¥3000ずつ出してChappie買いません?」といってきたので、普段の足代わりに買ったものだった。
 やがてHの友人のケンジというZ2に乗った仲間も増え、僕らの生活も、楽しいものになっていった。浪人生がこんなことをしていて、大学に合格する訳もなく、僕達は今思うとこのプー太郎のような生活を、楽しんでいた。僕にとっての80年代とは、そんな時代だった。

3.学生時代

 浪人生活も長くなり、僕とHは別の予備校に通いながらもそれなりに真剣に受験勉強に打ち込み、やがて僕もHも某歯科大に入学した。Hは無事大学を卒業し、今はどこかで歯科医をやっている筈であるが、僕は自分のなかにもやもやしたものが常に鬱積した状態で大学に通っていた。それは、本当に歯科医という仕事を一生自分の糧としてやっていけるのか?という疑問がつねに渦巻いていたからだ。
 そんな状態で学校に通っても良い結果が得られる訳が無く、留年を繰り返したあげく、中退した。この一見無意味な学生時代に今の仕事に対する下地を創ってきた。

 歯科医の仕事に疑問を抱いていた僕の唯一の趣味はSHOP巡りだった。そうしているうちにぼんやりとだが自分でSHOP経営をしたいと思うようになっていった。それは自分の考えを突き詰めていった結果たどり着いた結論だった。もともとが面倒くさがりやな僕が一生打ち込むことができるもの、それは自分が努力なしに興味をずっと向けられるもの、つまりアパレルしかなかったのである。
 大学に在籍していた6年間僕はすっかりバイクとは疎遠になっていた。4輪の免許を取得して、すっかりクルマ好きになっていたからである。

 大学を中退して、社会人になると、都内で駐車場を借りるのは経費がバカにならず、クルマを使う時はわざわざ実家まで取りに行きドライブするということをしていた。それに不便を感じていた僕は昔の血が蘇り普段の足としてバイクに乗りたくなっていった。当時、渋カジブームのまっただ中だった。steedやvirago等のAmerican Bikerが幅をきかせていたこともあって、Harleyにいずれ乗ろうと思いながら、第一歩として中型取得のため教習所に通いはじめた。

4.DUCATI

 めでたく、中免を取得した僕は、どんなバイクを買おうか、迷っていた。
そんなある日職場の後輩のOのマンシヨンに遊びに行った僕は1台の赤いバイクに目線が釘付けになった。みたこともない形、国産バイクとは明らかに違うレーサースタイル、物凄い角度のセパハン、シングルシート、メーターを覗いてみると、DUCATIという白いロゴが目にはいってきた。かっこいい、こんなバイクが欲しい。そう思いながら後輩の部屋に着き、バイクの話をしていると、
「俺のバイク買いませんか?車両10万で整備費用は実費でいいっすよ」
「え、お前何にのってんの」
「表に止めてあったドカ、見ませんでした?」
「あれ、お前のバイクなの?」
こうしてなにも知らないバイク初心者の僕は二つ返事で80年代の非常にナーバスなドカを買ってしまう。その後の苦労も知らずに…

 僕が買ったドカは、パンタ350XLだったが、エンジンは400のかなり程度の良いものに、換装されていた。ただキャブが、レーシングパーツに詳しいひとはお解りかと思うが、デロルトがついているタイプで、レース用のキャブに近い構造のためゴーアンドストップの多い日本の交通事情ではすぐに被ってしまう。最悪の場合、エンストしたが最後、2度とエンジンがかからなくなる、という決定的な弱点を持っていた。そのためWAISTBAGにはいつもプラグレンチと予備のプラグ、ワイヤーブラシが入っていた。
 そんなバイクでも僕はこのDUCATIが可愛くてしかたがなかった。調子が悪いときは、被りっぱなしのエンジン。アクセルを空けるとバックファイヤーの音を残しながら、の鈍い加速、でもひとたび調子を取り戻すと、どうしたもっと回してくれよと、訴え掛けてくるようなLーTWIN独特のパンタレーサーから吐き出されるエキゾーストノート。その全てが可愛い。
 人間くささを感じさせるバイクなのである。

そのエピソードとして最も記憶に残っているのが、ある日通勤で上野までドカで行った時に、信号待ちでエンストしたが最後2度とエンジンがかからない。仕方無く、お世話になっていたドカ屋に電話をいれ、症状を話すと、「行ってあげたいのはやまやまなんだけど、ウチ、トランポ持ってないんすよ。」という返事。暫し呆然として、ここに置きっぱなしで帰るわけにもいかないので、もう一度祈る思いでセルをまわした。2度目か3度目の時に、微かにエンジンが唸った。次の瞬間、エンジンがかかったのである。そこから彼女の待つ池袋にたどり着くまでアイドリングを下げずに、注意しながら走った。そして池袋から、当時住んでいた練馬のアパートに帰ろうとセルを回したが、どれだけまわしてもドカのエンジンに火が入ることはなかったのである。
 もしかするとたまたまそういうことが起こったのかもしれない。でも僕はこう思った。とりあえず池袋までお前を運んでやったんだから、もう大丈夫だろう、これ以上俺は無理出来ないよ。そう愛車が語っているような気がしてしかたなかったのである。

そしてやがて、車検が切れ、ドカを下取りにだして、ホンダのオフロード車を買った。そして納車準備が整ったから車両を引き取りにきて下さいとの電話を受け、取りに行くと、僕が下取りにだしたドカはそのバイク屋のガレージの片隅で息を潜めていた。新しく買ったバイクの説明など耳に入らない。凄く寂しそうな後ろ姿…
 そのオフ車には、ドカほどの愛情は持てなかった。どんな状況でもそれなりに走ってしまう国産バイクそのものだったのである。


5.国産バイク

 そんなドカに乗っていた僕は、国産バイクに全く魅力を感じなくなっていた。それが何故Kawasaki車に乗りたいと思うようになったか。きっかけは、ある雑誌のKawasaki車特集の記事を目にしたことから始まる。それは、Kawasakiというメーカーのモーターサイクル部門創世記の姿勢に共感したからだ。

 Kawasakiは国内の他3メーカーに、会社設立の点で、大幅な遅れをとっていた。そのため3メーカーよりも秀でた何かが必要だったのである。Kawasakiがとった結論は世界最速のバイクをフラッグシップモデルとする。ということであった。ここからKawasakiの持つ、現在では伝説ともいえる逸話がいくつも生まれることになる。

 Kawasaki750SS 通称H2は2ストローク3気筒という特異なエンジンレイアウトで発表された。2ストという非常にピーキーなエンジンでずば抜けた加速をするくせにフレームはヤワで、ブレーキはドラムというバランスの悪い、いってみればそのへんのトータルな部分まで、手が回らないというバイク。でも早さだけは譲れない、というKawasaki創世記における象徴の様なバイク。
 この時代の姿勢に、SHOPを始めた頃の自分の気持ちがダブったのである。つまり、なりふりなんか、構っていられない、でもここだけは、絶対に他のひとには譲れないという姿勢に心を打たれたのである。 

この時代のKawasakiの姿勢は、現在では、確かに薄れてきていることは否めない。けれども恐らく現在でも国内4メーカーでトータル販売台数でいえば、4位だろう。こういう状況でもバイクメーカーとしての、ポリシーは貫いている。なぜならラインナップにあれば絶対売れるだろうという車種を敢えて作っていない。一番一般的に売れる筈のスクーターは1台も作っていない(あくまで日本国内での話だが)。BIGBIKE makerとしてのイメージがまだ強かった70〜80年代の頃は原付すら作っていなかった。ここがいわゆるKawasakiエンスーを生んだ大きな要因だろう。

6.車歴

 こんな偉そうにKawasakiに対するコラムを書いてきましたが、初めてKawasaki車に乗り始めたのはたかが5年ほど前のこと。それまではドカに始まり、GB250、XL250と乗り継ぎ、初めてのKawasaki車はKDX220という2ストのオフ車だった。これに乗り始めた頃は2ストの加速を楽しんでましたが、ある日、仕事の帰りに物凄く早いCRM250にでくわしたことをきっかけに、その頃すでに絶版車になっていたKDX250を、中古でもいいから欲しいと思い始め、やがて新車で買った220を下取りに中古の250を買ってしまう。

 250はたった30ccしか排気量の上では差はないが、もともとENDUROレースのReguraionを満たすために販売されたというだけあって、Frontは倒立だし、リアショックも220のようなヤワな感じはなく、がっちりした剛性感にあふれていた。そのニーゴーに乗った途端、これならアイツ(例のCRM)に勝てるかもしれない、と内心おもった。
 やがて仕事帰りに信号待ちで止まっているCRMを発見し、迷わず僕は、ヤツの真後ろにつけた。KDXのチャンバーから吐き出される、渇いた排気音に、自分と同じ2ストのオフ車と気づいたらしく、ヤツも信号待ちの間にアクセルを開け始める。そして横の信号が黄色から赤に変わる瞬間(バイク乗りはよくこういう見切り発進を日常的にしている)、2台とも物凄いSTARTダッシュ、その時に初めて気づいたのだが、ヤツはギアチエンジの時にアクセルを緩めてはいなかった、同じ2ストのニーゴーなのに、差は開いていく。そしてやがて4っつめの信号のあたりで、ライン取りを読み違え、左のすり抜け不可能な方にCRMは向かっていく。しめた対向車はいない、右からかぶせていけば、ぶっちぎれる。そして思った通りその次の瞬間僕が先頭に立っていた。
 その後、僕の方からCRMにバトルを仕掛けることはなかったが、アイツは僕よりも数段上のテクニックを持っていたことは確かである。
 こんなことをしながらも僕はこのKDXを愛していたのだが、やがてKDはあっけなく廃車となってしまう。事故という形で…


7.4気筒マルチ

Kawasaki車の名前をここまで押し上げたのは、Z1を始めとする空冷4気筒DOHCで一時代を築きあげてきたことが、大きい。にも関わらず、僕はそれまでマルチに全くといっていいほど興味がなかった。理由はあのサウンドにどうしてもなじめなかったのである。それで、当初オフ車とシングル系のバイクにしか目が向かなかったのである。
 それがやがて乗り続けていくうちに、4ストでは飽き足らなくなり、やがてスピード教になっていた。そしてスピードを追い求めていくと、現在のところでは、最も扱いやすく早いEGは4気筒マルチしかない、という結論に達した。
 2ストは確かに瞬発力はあるが、高速の伸びが無い。色々考えた挙げ句KDXの次は、形で選ぶなら、HONDAのVTR、性能なら、HORNETかBALIUSしか選択肢は無かった。ニーゴーにこだわった理由は、いづれ大型免許を取得するつもりだったので、400ccで車検を通す費用が有るなら全て大型の資金にしようと考えていたからだ。

 そして結局僕はBALIUS2を買った。免許取得までのツナギのつもりで買ったバイクなのではっきりいって期待はしていなかった。が、乗ってみてビックリした。
 排気量が小さい分この手のバイクは回転数で馬力を絞り出している。(今はメーカー側の自主規制もあり、40psに抑えられている。)発売当初は45ps!あった。一昔前のM1(Z400GP)とほぼ同等のパワーである。水冷のインラインフォーは、16バルブDOHC、REDZONEは18000である。買ってすぐにマフラーをショート管にした。すると低速トルクは無くなったが、6000から上は物凄いふけ上がりになり、あっという間にDEADENDまでいってしまう。
 この乗り味がヤミツキになり、僕の考えは一変した。バイクはマルチしかない、180度考えが変わった。そしてやがて大型マルチにしか目がいかなくなった頃、僕は約10年振りに教習所へ通い始めた。

8.リッターバイク
 僕が社会人になって、2〜3年経った頃、前述の後輩Mから電話があって、3回で大型を取得したという話を聞き、内心羨ましいの一言だったが、当時の僕はそれを聞いてすぐに受験しにいくだけのエネルギーはなかった。そして僕が中型に乗っているのをしっていたので、日帰りで近場にツーリングにいこうと誘ってきたのだった。
 待ち合わせ場所にいって、初めてMのCB1100Fを見て驚いた。オーストラリアからの逆車で、マフラーは現地でつけたものらしく2本だしのショート管。(むこうでは、集合管よりもこのタイプが主流らしい)パット見では、ノーマルにも見えるが排気音がまるで違う。大型車特有の低音で、アクセルを捻るとバチバチツ!という今迄聞いた事もないような、エキゾースト。そしてアイドリングも、4気筒マルチらしからぬドツドツという低音。
 これは一種のカルチャーショックだった。それ以降マルチに対する見方が変わったからだ。この時の記憶がゆくゆくは、教習所通いを決心させた直接の引き金になったような気がする。

 僕が社会人になって、2〜3年経った頃、前述の後輩Mから電話があって、3回で大型を取得したという話を聞き、内心羨ましいの一言だったが、当時の僕はそれを聞いてすぐに受験しにいくだけのエネルギーはなかった。そして僕が中型に乗っているのをしっていたので、日帰りで近場にツーリングにいこうと誘ってきたのだった。
 待ち合わせ場所にいって、初めてMのCB1100Fを見て驚いた。オーストラリアからの逆車で、マフラーは現地でつけたものらしく2本だしのショート管。(むこうでは、集合管よりもこのタイプが主流らしい)パット見では、ノーマルにも見えるが排気音がまるで違う。大型車特有の低音で、アクセルを捻るとバチバチツ!という今迄聞いた事もないような、エキゾースト。そしてアイドリングも、4気筒マルチらしからぬドツドツという低音。
 これは一種のカルチャーショックだった。それ以降マルチに対する見方が変わったからだ。この時の記憶がゆくゆくは、教習所通いを決心させた直接の引き金になったような気がする。

 そしていざ教習所に行き始めて、驚いたのは、ゆうに60は過ぎていると思われる爺さんが2人、それ以外にも、いわゆる「おやじ系ライダー」が、けっこうな人数いたのには、驚かされた。
 大型教習と中型教習は、同じ時間帯に別グループで行われていたため、中型教習の様子もみることができた。そこの教習所は比較的自由な雰囲気だったが、驚いたのはその中免教習を受けている中にドイツ軍のヘルメットや半帽タイプのヘルメットを被った教習生がいたことだ。
 
お店は休むわけに行かないので、朝一で教習を受けねばならず、教習のある日は通常は10:30起床のところを、7:00前に起きなくては間に合わなかった。これがしんどかった。たったの 12時間(実地のみ
だが、時間も規制されていたので約一ヶ月半通い、卒検に合格できたのである。
 めでたく免許取得した直後、思いもよらぬ事態が、待っていた。


9.900R購入への道

 900Rを買おうと思ったのには、幾つかの理由がある。Kawasakiというメーカーは900という排気量に対してある種のこだわりを持っている。900RはZ1がフラッグシップでなくなった後に次なるフラッグシップとして開発されたものである。当初900Rは空冷6気筒として開発された。結果は上々だったが、トータル面で折り合いがつかず、空冷4気筒モデルも検討されたが、時代の波は、すでに水冷EG主流にきりかわろうとしていた。そして満を持して、900Rは発売された。最高出力、ゼロヨンタイム、最高速どれをとっても当時の世界最速のバイクが出来上がった。

 僕は900Rを買うか、現代版Zともいわれているゼファー1100にしようかで、かなり迷った。ゼファーシリーズはKawasaki車のなかで唯一の空冷である。空冷と水冷では乗り味が違ってくる。空冷車は低中速域がトルクフル、それに比べ水冷は高回転域でパワーを出すものが多い。乗り味も勿論だが、両者とも製造中止が囁かれているというのも、いまのうちに乗っておきたいという気持ちを更に膨らませた。
 結局、僕は900Rを選んだ。理由は長距離を走る時にカウルつきのバイクでないと風の抵抗がつらいからである。Ninnjaというニックネームからもわかるように、みかけからは想像出来ないほどコーナリングが軽やか。つまり町乗りにもツーリングにも使えるオールラウンドプレーヤーなのである。
そして免許取得して間もなく僕はいきつけのバイク屋に、自分の探している900Rの条件を幾つか提示し、多少時間が掛かっても程度のいいものを探してもらうよう、お願いした。その数日後、BALIUSで仕事場へ向かう途中、スピードで捕まった。赤切符…一ヶ月の免停である。不思議と車では一度もスピード違反はない。がバイクではこれが2回目、一回目はKDで捕まった、40kmオーバー。今回も同じである。

 免停開け、結局自分で探したのが今の愛車である。早くバイク用レーダー積まないとやばいっすよとMにも言われ、自分でもそう思う。なんせ900Rだと、自分では80kmくらいのつもりがメーターみると140kmなんてことがよくあるもんですから…

  Postscript:僕の愛車がドック入りして2週間ちょっと経つ。パーツが届かないらしい。いやーこんな寂しいとは思わなかった(泣)。

10.ドライビングシュミレーターで見た、アブネー奴!

 ドライビングシュミレーターというマシンをご存じだろうか?ゲーセンに置いてあるようなルックスの、機械のことである。車用の機械は随分と昔からあったような記憶があるが(大体、路上教習に入る前に、シュミレーションとしてコイツをやらされる)バイク用のものが登場したのは、つい最近のことらしい。

 僕が乗車したのは、HONDA製のなかなかのハイテクマシンだった。3人一組でこの教習を行うのだが、そのうちの1人が見た目モロにバイクオタクといった感じの20代前半位の男だった。
 教習は人によって違うステージを運転していくというもの。まず1人目ががっしりした体格の体育会系のあんちゃん、ノーマルな昼の市街地走行。無難にこなし
「はいーじゃあそこまで」
と教官。次が僕で夜の市街地走行。なんとかこなし、
「んー大体そんな感じねー」
そして最後が問題の彼の番。舞台は一転して高速走行。
 ところがこいつ跨ったまましばしぼーっとしてる。
「はいどうぞスタートしてください」
するとクラッチを繋ぎ、かなりのスピードで高速に進入。しばらくいくと、高速の料金所のゲートが見えてきた。するとそのすぐ手前で急ブレーキで減速し、教官に
「あのーこれどっからはいったらいいんすかあ?」
半分怒った口調で
「信号青のところにきまってんだろ!赤信号入ってどうすんだよ」
そしてゲートを抜けて暫く行くと、左の路側帯に、煙幕を炊いてる故障車両が…それでも一切徐行する様子もなくそのままのスピードで走行、すると目の前に濃い霧が…前方視界はゼロに近い。すると次の瞬間2台の大型トラックがハザードをつけて、車線を塞いでいる。するとコイツ、何を思ったのかフルブレーキングどころか、ハンドルをその2台の間へ向け、その2台の間をすり抜けようとした。恐らくそのシュミレーシヨンのプログラムではそんなことはできないように設定されていたのであろう。次の瞬間クラッシュの轟音とともにゲームオーバー。
「はーいTさーん即死ー!」
それをみていた僕ともう1人のあんちゃん、思わず大爆笑。しかし教官はあまりにもなめくさった態度に、怒った表情は崩さず、
「大体君さートラックが出て来る前に故障車両がいた時点で、あーこの先何かあるなーって予測するのが普通だろう!そのまま何も考えずにいっちゃあだめだよ。」
すると僕らがうけて笑ってるのが嬉しかったのか、にたにた薄笑いを浮かべ
「はあ…」
危ない!危なすぎる。こんな奴が大型取って、簡単に300kmというスピードを公道で出してたとしたら…怖いよねー。
 昔中免を取った教習所で学科の時間に『もし前方にどうにも避けられない状況で車が飛び出してきた場合最終手段としてどう回避したらいいか?』という質問に『わざと車体を転倒させる』と答えたことがある。結果的にそれは正解なのだが、その教官曰く
「最近そういう考えの出来る人が減ってきているので危険が増大しているのは否めない」
といっていたことを思いだし、コイツは典型的な例なのかもしれないなという結論に達し、複雑な思いでその日教習所を後にした。

 

HOME NEXT